南城市大里の南風原農村公園のすぐそばにある食栄森御嶽(イームイ御嶽)。
南城市なのに南風原?と混乱しそうな地名ですが、ここは昔、島尻郡大里村南風原という地区だったようですね。
この敷地内には御神屋があって、
その後ろに御嶽への入り口があります。御嶽への入り口というか、この辺一帯が御嶽なんだとは思いますが…。
夕方の時間帯に来たこともあって、この入り口が異世界へ続いているように見えて、入るのになかなか勇気がいりました。
だって入り口をのぞいたら、千と千尋の向こう側みたいなんですもん。
石造りのアーチを潜り抜けて急な階段を登ると、やっぱり異世界だわと感じさせる空気の中に、それはありました。
舜天の墓と伝わる場所。右には灯籠、左には石碑が建っています。
南城市の案内板によると、石碑には、
ここに骨あり世に遠くしてその人知らず 然れども崇ありて嘉慶二十年八月ここに葬る
と書かれているそうです。
この御嶽の存在を知るきっかけになった歴史本『琉球王国の真実-琉球三山戦国時代の謎を解く』(伊敷賢著)では、この御嶽には、”天孫氏二十五世王の大里世之主の墓と伝えられている古墓もある。”とありました。
天孫氏25世といえば、逆臣利勇に討たれた人物かと思うのですが、その人物が、大里世の主だとする説があったのには驚きでした。個人的にはとても興味深いです。
そして食栄森御嶽は大里城跡のすぐそばにあるし、そこに舜天の名もちらついていて気になりますね。もっといろんな角度から情報を集めたい場所です。
琉球王府の史書『中山世鑑』にも、舜天が逆臣利勇を滅ぼす時に、自分は先王(天孫氏25世)には大変お世話になったと語らせています。ただ中山世鑑の舜天の項は、ほぼ創作だといわれていて、自分としても創作なんだろうなと思いながら読んでいますが、この御嶽に舜天と天孫と大里按司(世の主)という3つのキーワードが並ぶと、ここは夢か現か、どこまでが創作なのか現実なのか、目がチカチカしてきます。
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帰りがけ、石積みの急な階段を這うように降りてアーチの外に出た時は、無事現実に戻って来れたんだとホッとしました。
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