南城市大里字大里にあるギリムイグスク。
以前、島添大里グスクを見に来た時に、たまたま標識を見つけたグスクです。
その時は、何のことやら意味が解らなかったのでスルーしたのですが、後日、歴史本を読んている時に、ギリムイグスクは天孫氏王の館跡だという一文を見つけたので、改めて見にきました。
グスク内の拝所や墓
まずはギリムイグスクを訪れた際に見つけた、拝所や墓です。
遥拝所
ギリムイグスク標識横の階段を登ってすぐに広がっている広場は、遥拝所だそうです。
写真左が火の神(ヒヌカン)。真ん中はウサチ世ヌ墓へのお通し(遥拝所)。写真に入りきらなかったのですが、この右側にももう一つ拝所があります。
先之世之主の墓
遥拝所から、軽く山道(?)を登った途中に、ガジュマルの根っこに包まれた香炉がありました。ここは、先之世之主の墓(サチヌユヌヌシノハカ)だそうです。
少し怖いぐらいに神秘的な景色でした。
ウサチユヌ墓
そのまま森の中を進むと、また墓らしき場所を見つけました。
ここは、ウサチユヌ墓というそうです。おそらく「御先世ヌ墓」と書くのではないでしょうか。
あともう一つ、何らかの拝所を見つけたのですが、詳細を突き止められませんでした。
ウサチユとサチユ
さて先ほど、ガジュマルの根元に香炉があった場所を『先之世之主の墓』、その先で見つけたのを『ウサチユヌ墓』と紹介したのですが、この呼び名に関して歴史本の中で気になる箇所を見つけました。
琉球の時代区分の呼び方に、天孫氏王統の時代を『御先世』、舜天王統時代を『先世』と呼ぶ人もいるというのです。
それを素直にギリムイグスクに当てはめてみると、『先之世之主の墓』は舜天王統時代の世の主の墓、『ウサチユヌ墓』を『御先世ヌ墓』と書くとすれば、天孫氏王統時代の人物の墓。とも解釈できますよね。
ただこれは、時代区分の呼び方について、もう少し調べてから納得したいです。
そしてさっきから歴史本歴史本と言っている本は、先日の食栄森御嶽の記事でも登場した『琉球王国の真実-琉球三山戦国時代の謎を解く』(伊敷賢著)という本です。
最初に書いた、天孫氏の館跡があったという情報もこの本から知りました。それにこの本には、ギリムイグスクに舜天の墓があると書かれています。
でも今のところ、これだけ詳しい情報はこの本からしか得られてなくて、私としては、一つだけの情報を鵜呑みにしてしまうと歴史勉強のおもしろ味がなくなるので、ギリムイグスクに関しても、もっといろんな角度からの情報を集めたいなと思っているところです。
島添大里グスクとの関係
ギリムイグスクの拝所や墓についての、簡潔な解説が含まれている資料を、南城市が公開しています。(『島添大里城跡保存管理計画書』)
→島添大里城跡保存管理計画書の掲載について【南城市公式サイト】
その資料を見ていると、ギリムイグスクに玉村按司の墓があることを知りました。
そこから派生して玉村按司について調べたところ、どうやら、南山王の叔父・汪英紫(エージ)が島添大里グスクを乗っ取る前の城主のようです。
ということは、墓はギリムイグスクにあるけれど、玉村按司は島添大里グスクの城主だったということになります。
その他『世界遺産グスク紀行-古琉球の光と影』(岡田輝雄著)には、島添大里グスクについて
グスクを開いたのは、アマミキョの後裔、天孫子族だと伝えられ、近くの森には天孫子墓というのもある。さらに舜天王を祀った御嶽とか、舜天王の母の墓などもある。
とあります。
いろんな箇所で、島添大里グスクとギリムイグスクの情報が交錯しているような気がします。
ここでまったく素人の想像を挟みますが、ギリムイグスクは大里グスクの出城だとよく目にしますが、出城というより、大里グスク発祥の場所なんじゃないかと。時と共に拡張されていって、最終的に現在わかっている島添大里グスクのような大規模なグスクになったんじゃないだろか。と思うのです。
せめてギリムイの語源がわかれば、ヒントの糸口が見つかりそうなんですけどね。
っていうか、今気づきました。さっきの引用文に”近くの森には天孫子墓というのもある。”って、もしかしてウサチユヌ墓のこと??まさかやー。
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