糸満市名城の歴史散策をしてきました。
散策の参考にしたのは、糸満市公式サイトに掲載されている『旧真壁村集落ガイドマップ』です。
帰ってからさらにあれこれ調べていたら、トマンザの地形とかフェンサグスクの按司とか、いろんな方向に想像が膨らんで話が長くなりました。ですので記事を分割します。
この記事は糸満市名城のトマンザとフェンサグスクの話です。
トマンザウトゥーシとエージナ島
名城で最初に見に行ったのは、公民館の後ろにある拝所「トマンザウトゥーシ」。

トマンザウトゥーシとその向こうに見えるエージナ島
北名城海岸の先に浮かぶエージナ島への遥拝所です。
エージナ島にはイビシンと呼ばれる拝所があって、『琉球国由来記』に「アイゲナ森 神名 潮花御イベ」とある拝所がそれではないかといわれています。
「アイゲナ森 神名 潮花御イベ」はニライ神を祀っている拝所らしいのですが、「アイゲナ」の意味も「潮花」の意味も突き止めることができませんでした。
でもなんとなくニュアンスで「アイゲナ」が訛ってエージナになったのかなと思います。それに「潮花」は白波打ち付ける場所のことだろうなという気がします。
トマンザ-集落の祭祀が行われる広場
現在公民館やトマンザウトゥーシがある高台は「トマンザ」と呼ばれる広場です。(写真撮り忘れ)
トマンザではウシデーク(臼太鼓 / 祭祀舞踊)や綱引きなど集落の行事が行われるんだそうです。
「トマンザ」という地名には「十万座」という漢字が充てられていて、十万座毛とも書くようです。「毛」とは原っぱや広場のことですね。私はこの字を最初に見たとき、恩納村の万座毛ならぬ名城の十万座毛、つまり十万の人が座する毛かと早とちりして喜んだわけですが、改めて考えるとそうではない気がしてきました。
というのは恩納村の万座毛は琉球王国時代も後半の尚敬王(在位1713年~1751年)もしくは尚穆王(在位1752年~1794年)が名付けたとされるからです。私が思うに名城のトマンザはそれよりもっと古く、少なくとも三山時代の他魯毎王(在位1383年~1419年?)のころにはすでにあったのではないかと。
と、その辺を深く調べようと思いましたがまた突き止められず。これも今後の宿題です。
トマンザ下の畑地は海だったりして
あと、トマンザの標高は20mほど。そのすぐ西側に広がる畑地は標高3mほどでかなりの高低差があります。
トマンザウトゥーシはエージナ島まで渡るのに難儀するので建てられたということですが、もしかしたら大昔は現在畑地のエリアまで海だったのかもしれないなと予想しています。海でなくとも砂浜だったのではないかと。
これも結局調べきれませんでした。でも、名城地区より内陸にある伊敷地区の伊敷グスクは大昔はすぐ下まで入り江になっていたという話もあるので、そんなに突飛な発想ではないと思うのですが…。どうでしょう。
フェンサグスクと周辺の拝所
公民館から北に向かって進むと、小さな山とその手前に点々と拝所が並ぶ広場がありました。
小さな山は大殿内山(ウフドゥンチヤマ)。この山を背にして集落が南側に広がっているので、ムラの御嶽(腰当て・クサティ)的な存在なのかもしれません。
そしておそらくこの辺一帯がナーグスク(名城グスク)。またの名をフェンサグスク。
クニウタキ-やはり海は近かった?
拝所が並ぶ広場の一番奥には格子戸のある祠が建っていました。ここはクニウタキ(国御嶽)と呼ばれる拝所だそうです。

クニウタキ(国御嶽)
国というのはどうやら名城のこと、ムラとか村落のことを指しているっぽいです。
祠の中に納められているのは石灯籠。ガイドブックによると、海で遭難しかけた唐の人が大殿内山に避難して助かったので、お礼に灯籠が贈られたんだとか。
いつの時代の出来事なのかわかりませんが、やっぱり昔は今より海が近かったんですよ。と強引に決めつけてみたり。
大殿内(ウフドゥンチ)の御神屋
広場の真ん中に建てられたコンクリートの小屋は大殿内(ウフドゥンチ)の御神屋。

大殿内の御神屋
「大殿内」というのは、沖縄でいう門中的な一族の屋号です。「大殿内」という一族は名城の根屋(ニーヤ)と伝わっているそうです。根屋とはムラの草分けの家のこと。
御神屋の中には火の神といくつかの香炉が並んでいました。元々他の場所にあった御神屋をここに移設したんだそうです。
カミガー(神井泉)
御神屋の隣にはカミガー(神井泉)という泉?の跡。

カミガー(神井泉)
ガイドブックによると”正月とウマチーのカーウガミ(井泉拝み)”で拝まれるとありました。
ウマチーとは豊年を祈願したり感謝したりする祭祀のこと。ということはカミガーの湧水を頼りに農作をしていたのでしょうか。大昔の琉球では水が湧くところに人がやってきて住み始めたという話をよく聞きます。
大殿内のトン-大昔に屋敷があった
御神屋とカーの東側には「大殿内のトン」と書かれた拝所がありました。

大殿内のトン
「トン」はおそらく「殿」とも書くはず。
屋敷跡かなと思ったらやはり、”古い時代に〈大殿内〉の屋敷があった場所だともいわれている。”とガイドブックにありました。
ナーグスク(名城グスク)と宮城島のナーグシク
先ほどから登場している「大殿内」一族の始祖はタルマサという人物で、タルマサ(樽真佐)は南山王・他魯毎の息子だといわれています。
手持ちの歴史本『沖縄戦国時代の謎』によると、南山グスクからタルマサ王子が移って来たとのこと。
そしてナーグスク(名城グスク)を築いて「大殿内のトン」あたりに住んでいたんだと思います。
その後日談として、他魯毎が尚巴志に敗れたのでタルマサは宮城島(現:うるま市与那城)に逃れた。という説があるようです。
宮城島には宮城按司(ナーグシク按司か?)が移り住んだというグスク跡(南城・ナングスク)があると。これはぜひ見に行きたい。
→うるま市文化財パンフレット(10.宮城島)【うるま市公式サイト】
ちなみにうるま市与那城の宮城地区は方言名で「ナーグシク」というそうです。ナーグシク→ナャーグシク→ミャーグシク→ミヤグシク→宮城!?…と、また強引な想像をしています。
タルマサの息子・ヘンサー
話を糸満市名城に戻します。
名城集落にはタルマサの息子であるヘンサーの墓と伝わる場所がありました。それがカチン山。

カチン山
ヘンサーという名は足が速かったことから付いたあだ名だそうです。はやぶさのように速いことからヘンサー。鳥類のはやぶさのことを沖縄の言葉で「フェンサ」というようです。
フェンサグスクの名前も彼のあだ名をきっかけにそう呼ばれるようになった。と、いとまんコミュニティFMのサイトで見つけました。
ちなみにマランラルーというのは「マナンダル(真鍋樽)」の訛りだと思います。
ところでヘンサーの墓はカチン山と呼ばれているようですが、琉球で「カチン」と聞くとどうしても、カチン→カッチン→勝連をイメージしてしまいます。しかもヘンサーの息子はシルタルー(四郎樽金)で、勝連(現:うるま市勝連)の浜川按司の娘と結ばれた。と伝わっているようで。
むむむむー。この辺はもう少し情報を整理して理解したいところ。カチン山が勝連と関係があるとすればヘンサーよりシルタルーに関連する場所ではないかと考えてしまうからです。
シルタルーの墓は現在フェンサグスク(大殿内山)の麓(?)にあるそうですが、戦後に改葬されたものという話もあります。
と、話が長くなってきたので今日はこの辺で。続きはまた後日。書けるのかしら…。
わからないことだらけなのに話が長くてスミマセン。
→うるま市文化財パンフレット(10.宮城島)【うるま市公式サイト】
その2へ続く→名城に残る御神屋を見学-糸満市名城の歴史散策
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