糸満市喜屋武の歴史散策をしてきました。
糸満市の公式サイトには、各字の「1945(昭和20)年ごろの屋号地図」が掲載されていてとても感動したのですが、どういうわけか旧喜屋武村と旧摩文仁村エリアの屋号地図はまだ掲載されていないのです。
もしかしたら喜屋武公民館に行けば何かあるのではないかと思ったので、とにかく行ってみることに。公民館で地図をもらってそのまま散策すればいいじゃないか。という魂胆です。
ところが公民館で聞くと、地図はないです。とのこと。
仕方がないので、公民館すぐそばの「喜屋武公園」に残る旧跡だけを巡って写真を撮ってきました。
※追記:ついに、旧喜屋武村と旧摩文仁村エリアの屋号地図が掲載されました!!
「シリーヌ殿」は「志礼の殿」??
公園の駐車場に車を置いて、まず目に留まるのが石積みの祠。
近くの案内板には「シリーヌ殿遺跡」と書かれていて、祠の近くにはランダムな方向に3つ拝所がありました。
石積みの祠は中の様子からして火の神じゃないかなぁと思います。周辺の拝所は…遥拝所?かと想像しますがわかりません。
シリーヌ殿というのはおそらく「シリーの殿」。屋号もしくは門中名「シリー」元祖の屋敷跡だと思います。
手持ちの歴史本によると、志礼門中の元祖となる人物が喜屋武にやってきたというような一文がありました。でもそれがシリーヌ殿と関わりがあるのかどうかはわかりません。
(手持ちの歴史本=『琉球王国の真実 琉球三山戦国時代の謎を解く』(伊敷賢著))
ちなみに歴史本では、志礼門中の元祖は尚巴志の流れを汲む人物で、第一尚氏が終わるときに喜屋武に逃れてきたと。
もしこの話がシリーヌ殿にあてはまるとすれば、土地の歴史の上では比較的新しい場所ですよね。
よくわからない拝所
喜屋武公民館の後ろには、コンクリートで覆われた敷地に小さな祠がありました。
地区の祭祀に使われていそうな広場に見えますが、これに関してはまったく見当がつきません。
今後何かわかれば追記します。
「金満之御嶽」は鍛冶場跡?
よくわからない拝所の向こうには小さな林。
林の中には「金満之御嶽」と書かれた拝所がありました。
なんとかの一つ覚えでしかないのですが、私は琉球で「金満○○」といえば鍛冶場関係の旧跡だと思っています。
ですのでここでもきっと鉄を叩いていたのでしょう。と想像。
村建ての「仲間門中 仲間ウフグルー世」
林の中にはもう一つ、「仲間門中 仲間ウフグルー世」と刻まれた石碑と拝所がありました。
前出の歴史本には「仲間門中」について”喜屋武村で一番古い家柄で村の嶽元でもある。”とあります。
嶽元というは、その土地の御嶽を管理している一族だと理解しています。
そして「ウフグルー」についてざっくり調べてみた感じ、ウフグルーは個人名ではなくて嶽元で受け継ぐ役の名称っぽいです。「当主」的なニュアンスかなと想像しています。
ということは、この拝所は喜屋武の村建ての一族が代々もしくは最初に住んでいた屋敷跡なのかなぁ。と思いました。
そしてウフグルーという言葉の意味を考えていたのですが、「ウフ」はまぁおそらく「大」でしょう。でも「グルー」って何でしょうね。「五郎」?だとすれば「大五郎」?
ちゃーん!
「奥間ヌ殿」奥間といえば鍛冶の技術
さて、喜屋武公園にはグラウンドの北側にも小さな林がありました。林といいますか、木立のある遊歩道といったところです。
その一角にあった「奥間ヌ殿」という拝所。
例の歴史本には気になる一文がありました。
”(仲間門中の)先祖は国頭間切奥間村から来たといい、奥間之殿(ウクマヌトゥン)を管理している。”
そこで国頭村奥間について少し調べると、奥間では古くから鍛冶の技術が進んでいたそうです。さらに、奥間の鍛冶のことを奥間カニマン。奥間の土地自体をカニマンと呼ぶこともあるらしい。
となるとやはり先ほどの金満之御嶽は鍛冶場関係と思ってよさそうですね。
ところで、奥間と聞くと反射的に奥間大親(察度の父親)を思い出すのですが、この奥間之殿が奥間大親と関係するのかどうかは突き止められませんでした。ただ単に奥間から来た人の屋敷跡なのか、奥間大親の身内ということでVIP待遇だったのか。それがわかるともっとおもしろいんだけどなぁ。
でも、ここ喜屋武の土地にその昔奥間から誰かがやってきて、鍛冶の技術を伝えたことで鉄製の農具が作れるようになり、おかげで農耕が発展し、人々が生活しやすくなった。だから奥間から来たその人にはめっちゃ感謝しているんだ。というストーリーは想像できますよね。
村の火の神-生活の発祥地?
木立の遊歩道ゾーンにはもう一つ拝所がありました。
これは村の火の神だと思います。…村という表現がいいのかどうか迷いますが、なにせ集落の火の神ですね。きっと。
村の火の神といえば生活の発祥地だと解釈しているのですが、喜屋武に関しては喜屋武漁港のすぐそばに古グスクがあるらしいのです。ただそのグスクがどういう風に使われていたのかはわかっていないようで…。
さらに喜屋武の古島(発祥地)はもっと東側にあったという説もあり。
よくわからないことだらけですが、まぁどこかのタイミングで火の神ごと移動してきたのかもしれないですね。例えば農地を求めて平地に下りてきたとか。
立派な香炉が並ぶ「ノロ殿内」
遊歩道を抜けて公園の外に出ると、道を挟んで向かいにある敷地が「ノロ殿内」。
写真を撮るにもがぶり寄りすぎて御神屋(ウカミヤー)しか写せてないですね。もっとこう、引いて撮れば囲いのある敷地の雰囲気が伝わるのに…。
ノロは琉球王国時代に王府から土地の祭祀を司る役を与えられた女性。ノロ殿内はその屋敷。
各地のノロたちの頂点は聞得大君(きこえおおきみ)で王の身内だったわけですが、そういう制度ができたのは第二尚氏の尚真王以降。琉球の歴史からするとわりかし新しい話。
でもそれ以前から琉球各地には祭祀を司る家系があったので、ノロ制度ができるらしいよ。となればきっとその家系の女性が推薦されたんだろうと想像しています。ただ、中には何か良いことをして王から褒美として抜擢されたノロもいるっぽいです。あと王の親戚筋とか。
御神屋の中には火の神と、立派な香炉がずらり。
こういうのを見るとかっこいいなぁと思うんです。背筋がシャンとする感じ。
昔ながらの雰囲気を残す屋敷跡
さて、「シリーヌ殿」から「ノロ殿内」までを巡ったところで喜屋武公園の歴史散策はおしまい。
なんですが、ノロ殿内の隣の敷地に昔ながらの雰囲気を残す屋敷跡があったので思わず写真を撮りました。
敷地の裏側から撮ったのですが、一番向こうに見えるのが石積みの囲い。そしてその手前にヒンプン。コンクリートの建物はおそらく御神屋でしょう。その周辺の石で囲われている部分が、昔は家屋だったのかもしれません。
こういう風景を見ると初めてグスクを見たときの感覚を思い出すんですよ。
確か座喜味グスクだったかなぁ。このアーチの向こうにはどんな人が行き交っていたんだろう。とか、どんな音が聞こえたんだろう。砂利を踏む音?車輪が軋む音?笑い声?怒鳴り声?おっさん?女?子ども??みたいなことを想像して不思議な気分になりました。
この屋敷跡もそんなことを考えながらぐるっと一周見て回りましたよ。いい風景でした。
しかし喜屋武の歴史をもっと知れたらおもしろいだろうなぁと思いました。今度は集落歩きをしてみたい。だからやっぱり歴史地図が欲しいです。
で、今さら気がついたんですが、喜屋武公民館で字誌があるかどうかを聞けばよかったんですね。しまったなぁ。ちょっと後悔。
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