先日初めて腰を据えて『中山世鑑』を読んでみたところ、舜天の描写の仕方が自分の知っているつもりだった内容とは違っていました。
それは私が今まで、中山世鑑を含むたくさんの資料に基づいて書かれた歴史本を参考にしてきたので、話がごっちゃになっていたみたいです。
なので、琉球王府の史書ではそもそもどんな風に舜天を描いているのか、まずは中山世鑑が描く舜天について、メモついでに書き出してみようかなと思います。
舜天にまつわる特徴的な出来事
書き出すといっても丸写しにはできないので、中山世鑑の現代語訳を読んでいて気になったポイントを、自分の言葉で箇条書きにします。
- 伊豆の国に流された源為朝が海流に任せて琉球へやってきた
- 源為朝と大里按司の妹の間に生まれたのが尊敦
- 為朝の故郷へ一緒に帰る途中、海が荒れたので牧港に降ろされた
- 母と共に浦添の粗末な家で暮らした
- 初めて片髪(かたかしら)を結ったのが尊敦
- 生まれた時から器量がよく人徳があった
- (1181年)15歳の時に人々に支持されて浦添按司となった
- 天孫氏二十五世への恩を返すために逆臣利勇を討った
- 尊敦が利勇を討つために攻め入ったのは首里城
- 最初は遠慮してたけど推しに推されて舜天王となった
- 正しい政治を行ない国は潤い民は安心して暮らした
- 1237年に在位51年、72歳で亡くなった
気になったこと
まず中山世鑑には、為朝がやってきたのは運天港とか、為朝の帰りを牧港で待ち続けたなどは書かれていませんでした。それから、洞窟育ちではなく粗末だけどもちゃんと家があったんですね。
あと気になったのが、為朝が帰る途中で船から降ろされたのが牧港だったこと。
ということは出発地点は別の場所だったということですよね。南部方面でしょうか…。私はてっきり、牧港から出発しようにも嵐で出られなかったのかと思っていました。
それと、天孫氏が毒殺されて利勇が中山王を名乗った話は、首里城での出来事という設定になっていますね。首里城の由緒を示すために、歴代の王はすべて首里城で政治を行ってきたというふうにした…のかな?
尊敦のセリフの意味
以前の記事で、尊敦にセリフがあると書いたとき、
「自分はええとこの子やでー」
というようなふざけた要約をしたのですが、よくよく読み込んでみるとそういう意味ではなかったようです。
以前の記事→中山世鑑を読んでいます(まだ56ページ目)
逆臣利勇を討つときのセリフには、尊敦を擁護する意味合いが多く含まれているように思いました。
あのセリフがないと、一地域の按司とはいえ、若造が天下を取った王に対してただ刃向かったことになるんですよ。それで『自分の血統にかけて、仁義に反することを見て見ぬふりはできないし、先王には大変お世話になった。だからご恩返しをするんです(したんです)。』と何度も言わせたんだなと感じました。
時代背景を知りたい
中山世鑑がまとめられた時期の時代背景をもっと知れば、なぜこの設定でこういうストーリーを描いたかというのが、もっと見えてくるんだと思います。
薩摩が政治に干渉していたころで、琉球が粗末な扱いを受けていた時期だから、舜天の父が為朝だったという伝説を採用した。という話はチラッと読んでいるのですが、羽地朝秀が生きた時代の詳しいことをまだ全然調べていないので、その辺のことは追々追記していこうかと思います。
ただ、尊敦は源為朝の子なんですよアピールと、私たち(編纂者)は源氏について詳しく知っているんですよアピールがすごいなと思いました。(前提観念があるからかもですが…)
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