中山世譜が描く舜天

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琉球王府初の史書『中山世鑑』の完成から51年後に改めてまとめられた史書『中山世譜』。

中山世譜の現代語訳

中山世譜の現代語訳

私は先週初めて中山世譜を読み始めました。そしてまた、舜馬順熙のところでいったん止めています。早く舜天やそれ以前の時代に関する記事を書き直したいので、いろんな資料を並行しながら読んでいるところです。

ひとまず今日は、中山世譜が描く舜天について気になるポイントを書き出しておきます。

特徴的なポイント

  • 源為朝が伊豆大島から舟に乗ってやってきた
  • 源為朝は大里按司の妹との間に尊敦を生んだ(1166年)
  • 源為朝は故郷が恋しくなって船に乗って帰った
  • 母と子(尊敦)は浦添に住んだ
  • 成長するにつれて行ないや器量がずば抜けていた
  • (1180年)15歳で人々に推されて浦添按司となった
  • 正しい政治を行った
  • 天孫氏が逆臣利勇に殺されたので義兵を起こして利勇を討った
  • 人々に推されて中山の王、舜天王となった
  • 王としても正しい政治を行った
  • (1237年)在位51年72歳で亡くなった

なんともcoolな中山世譜

それにしても中山世鑑に比べて中山世譜は、まぁ~coolな印象です。

世鑑の方でストーリー性をもたせてありありと具体的に描いている話も、世譜の方ではバッサリカット、もしくはシレっと短文で済ませていたりします。もし中山世譜の編纂スタッフが現代を生きていたら、たぶんMacユーザーなんだろうな。と思うくらいシンプルにまとめていました。

例えば、世鑑では源為朝の生い立ちから保元の乱を経て流刑にされるまでのストーリーを9ページに渡って描いていますが、世譜では1ページ程度に縮小。

源為朝が故郷に帰るときの嵐のエピソードもカット。尊敦に形見を渡して泣く泣く帰っていったストーリーもカット。その後、大人になった尊敦が形見の武具を身に着けて仁義を貫く描写もカット。形見の武具の詳細な描写もカット。尊敦のセリフもカット。利勇を討ちに行くシーンもカット。という具合です。

ホント笑ってしまったんですが、世鑑では12行に渡って描かれていた為朝と尊敦母子の別れのシーンは、世譜では、

”船に乗って帰った。”

以上!終了でした。

逆に追加されていたことといえば、尊敦の生まれ年(1166年)、それと尊敦という名は神名だとありました。神名というのが琉球でどんな時に使われたのかわからないので、それを書くことにどんな意味があるのか、また後程調べようと思っています。

資料として冷静に読みたいなら中山世譜

中山世譜の描く舜天があまりにもあっさりしているので、今この記事に書くことがないよなと思っているところです。

それで、舜天について詳しく知りたいなら世鑑か世譜かどっちがいいのかな。なんて考えていたんです。

世鑑の方はストーリー仕立てになっていて引き込まれやすいので、読んでいてそこに書かれていることが全て本当の出来事のような気がしてきます。多少つじつまが合わなかったり、不自然な出来事も『へ~!そうだったんだ~!』とスルッと信じてしまう感じがします。

世譜の方はほとんど箇条書きに近いような文章なので、当時の琉球はこれが正しいという風に発表したのねと資料として距離を保てる気がします。その代わり情報は少ないですが。

なので丸め込まれたくない人には中山世譜がおすすめかな。なんだこの話の〆方は…。

でもまた何か、表現の仕方の解釈とか新しい発見があったら追記しますね。

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