泰期(たいき / たいち)

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残波岬の泰期(たいき)像(読谷村宇座)

残波岬の泰期(たいき)像

読谷村の残波岬にある泰期(たいき)像。
「商売の神様」とされた泰期は琉球で14世紀後半に活躍した実在の人物だった。

進貢貿易の立役者

「商売の神様」とされる理由

残波岬に立てられた泰期像の台座には、

”…並外れた勇気と使命感、統率力、国際的ビジネス感覚で大交易時代を先導した泰期を「商売の神様」として象徴化し…”
と刻まれている。

1372年、浦添世の主であった察度(さっと)のもとへ中国明より来貢の催促があった。察度はそれにすぐに応えて遣使をおくる。これが琉球と明との公式な外交関係の始まりだった。この時に察度の使者として明国へ渡り進貢したのが泰期だった。

泰期は以降10年の間に5回も明国へ渡って進貢し、莫大なみかえりの品を琉球に持ち帰った。また、琉球にサトウキビを持ち帰り製糖法を伝えたともいわれている。

当時、明国へ渡るには多くの危険を伴った。その危険を顧みず何度も行き来した泰期は現在でもその勇気を讃えられている。

泰期の正体

泰期は察度の異母兄弟だったというのが通説になっている。
察度の父・奥間大親は天女との間に察度を授かり、天女が去った後妻に迎えた又吉家の娘との間に泰期が生まれたという。

ところで、泰期という名前はもともとはたいちという名の当て字だったという説がある。実際に琉球史本の中にはたいちと仮名が振られている本もある。たいちという名は鍛冶屋で作る刀の「太刀(たち)」に由来するという。この由来については泰期の一族は鍛冶屋だったのでなはいかという一説に基づく話ではあるが、もし、察度と泰期が異母兄弟だったなら、察度は交易で鉄を大量に輸入し、農民に道具を分け与えたことで人気を得たとされているので、鉄を打つ鍛冶屋と何らかのかかわりがあったとしてもおかしくないように思う。

一方で、読谷村宇座には”唐商い(からあきない)”つまり海外との交易を流行らせたたち(たいち)という人物を讃える歌が残されている。宇座のたちは長浜港を拠点に盛んに海外交易を行い周辺の按司たちに一目置かれる存在だった。このたちの能力を察度が認めて、琉球最初の進貢の際、自分の弟つまり親族だということにしてたちを明国へ送ったのではないかという見方もある。

宇座のたちと琉球初の進貢使泰期が同一人物であったことを裏付けるものはないようだが、現在では泰期は察度の弟で、宇座にグスクを構え、長浜港を拠点に盛んに交易を行っていた人物というのが通説になっている。

明国との交易が盛んになると、拠点となる港は那覇の泊港へと移された。そのため、泰期も那覇へ住まいを移し小禄城(おろくぐすく)を築いた。
那覇市小禄にある森口公園には泰期を祀る拝所が残っている。

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