読谷村波平の歴史散策をしたので地名の由来など調べたけれど

読谷村波平の歴史散策をしてきました。

訪れたのは「イットゥカグシク」と「波平大主の墓」です。

後日、波平について地名の由来や波平大主の正体などいろいろ調べたものの、いろんな情報に翻弄されて大混乱。

とりあえず、調べたことを書き並べておきます。

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イットゥカグシク=一時城

イットゥカグシクは、琉球王国時代に座喜味グスクを築城した護佐丸が、座喜味グスクを築城するにあたって仮住まいをしていた場所だそうです。「一時の城」とか「一時城」とも書くと資料にはありました。

確かに考えてみれば、護佐丸は元々住んでいた山田グスクの石を運んで座喜味グスクを造ったという話なので、仮住まいがあってもおかしくないですね。でも座喜味グスクを造る前は今帰仁グスクで北山監守をしていたので、イットゥカグシクを宿として使ったのか、任務終了後にここに移ったのか…。それはわかりませんでした。

読谷村発行の読谷村民話資料集『波平の民話』の概況の項には、“そこを特別に拝む行事はない。”とありました。

読谷村民話資料集(いろいろ資料館)【読谷村史編集室】

拝みの行事がないからなのか、イットゥカグシクがあった場所はただの空き地と森のような茂みが残るだけに見えました。

イットゥカグシク跡?(読谷村波平)

イットゥカグシクがあったという場所

ただ、この森の近くにあるらしい「大屋ガー」は、ムラの行事で拝まれる井泉の一つだそうです。

大屋ガー自体は見つけられなかったのですが、大屋ガーとつながっているであろう水路がありました。

イットゥカグシク付近の水路(読谷村波平)

イットゥカグシク付近の水路

人が住んでいたと伝わる場所に水が流れていると、とても現実味があります。

この水路は、シードーと呼ばれていてチビチリガマまで続いているそうです。

イットゥカグシクとチビチリガマの位置関係

イットゥカグシクとチビチリガマの位置関係(地理院地図で作成しました)

イットゥカグシクについて手持ちの資料ではこれくらいのことしかわかりませんでした。

イットゥカグシクの場所

イットゥカグシクの場所は「セブンイレブン読谷波平店」の裏側です。

セブンイレブン読谷波平店:沖縄県中頭郡読谷村波平845−2

波平大主の墓-美里間切からやってきた?

続いて波平大主の墓へ。

波平大主の墓(読谷村波平)

波平大主の墓

読谷村発行の『波平ガイドマップ』によると、波平大主の神屋は屋号イリ桑江(西桑江)の屋敷にあったと。

読谷村全22字ガイドマップ【読谷村史編集室】

そして、『波平の民話』(読谷村民話資料集)には、波平の発祥について、1535年頃、屋号、西桑江(根人)の祖先が美里間切池原村より安住の地を求めて移住してきたのが始まり。とありました。

読谷村民話資料集(いろいろ資料館)【読谷村史編集室】

波平大主は(現読谷村)波平の草分け(村建て?)の人物ということですよね。

移住してきたという1535年の時代背景を調べると、1534年に尚清王が冊封を受けていました。尚清王代といえば琉球王国はめちゃめちゃ栄えていた時期だと思います。でも、波平大主は安住の地を求めてここに来たということは、第二尚氏と良い関係ではなかったのかしら。などと妄想。

波平大主が波平に来る前の活躍などを知りたかったのですが、手持ちの資料では調べ切ることができませんでした。

ただ、読谷村刊行物『読谷山の由来記』に恩納間切山田村の“奴留殿内の比嘉宅の神元祖及び川山嶽御墓を参詣する諸人の家号”として、“波平村イリ桑江”とあったので、もしかすると波平大主のルーツに何か関係があるのかしら。と想像しているところです。(奴留殿内=ノロ殿内かと…)

『読谷山の由来記』(発刊物の紹介と購入)【読谷村史編集室】

恩納村間切山田村といえば、山田グスクの山田按司とか護佐丸とか、その上をたどれば伊波按司とか…。いろいろ想像が広がりますね。

もしかすると、恩納間切山田村や美里間切池原村について調べたら何かわかるかもしれません。それはまた追々。

波平大主の墓の場所

波平大主の墓は「居酒屋大笑」側の県道6号線から目指すのが行きやすいと思います。

居酒屋大笑住所:沖縄県中頭郡読谷村波平874−1

波平はもともと「はびら村」だった

ところで、波平という地名を見て最初に浮かんだのは「ハンジャ」という読みでした。波平=ハンジャ。

実際、波平のガイドマップにも、“通称ハンジャ”とあります。

この「ハンジャ」という言葉を調べると、沖縄の言葉で「走イ川(ファイカーと読むらしい)」とか「走井(バイカア)」が語源(?)で、水が豊富で走るように流れるという意味だそうです。

参考にした本→『沖縄地名考』宮城真治【Amazon】(p.145)

参考にした本→『沖縄の古代部落マキョの研究』稲村賢敷【Amazon】(p.252)

それからもう一つ、ハンジャ→カンジャー→鍛冶屋だと、どこかで読んだことがありました。

そういうことなので、私はてっきり波平という地名は、鍛冶技術を持った人がやって来て村建てをしたことが由来かと早とちりをしたのですが、それも見当違いっぽいのです。

どうやら昔の文献に波平は「はびら村」と書かれているそうで、それについて『波平の民話』(読谷村民話資料集)の一文を引用します。

波平部落の名が文献に登場して来るのは、1649年に編集された『絵図郷村帳』で、それには「はびら村」と表記され、『琉球国高究帳』(1673年以前に編集)にも同じく「はびら村」の名で出ている。

そこで「はびら」の意味を調べると、

haberu(名)蝶。宜湾朝保の琉語解釈に「はびる,蝶也。はびらともいふ。百首異見御かきもり云々といふ歌の註に,蝶の旧名はかはびらこと見えたり。かはびらこのかとこと略したるなるべし」とある。【『沖縄語辞典』本文篇(沖縄首里方言辞典)p.198から引用しました】

沖縄語辞典 データ集【国立国語研究所】

はびらの意味はまさかの蝶?!

深追いするうちに混乱してきました。

これは「波平」という漢字が先にあって「はびら」と読んだのか、はたまた「はびら」に「波平」を充てたのか…。

ちなみに国会図書館のレファレンスデータベースには、ハビラが訛ってハンジャとなるのは自然な変化だという資料が紹介されていました。

読谷村波平はなぜ“ハンジャ”と読むか。【レファレンス協同データベース】

ふふふ。そろそろギブアップです。

ハビラからどんな感じでハンジャと訛るのかイメージできないし、そもそもハビラってなにー?

それはそうと、ハンジャ→カンジャー→鍛冶屋の話をどこで読んだっけと資料を探していると、手持ちの歴史本に、現糸満市の南波平では、南山滅亡後に読谷山間切の波平大主が南波平グスクを築いていた。というような一文を見つけてしまって、今、頭の中は大混乱です。南山滅亡後だと?尚清王代より前?え?え?

手持ちの歴史本→『琉球王国の真実』伊敷賢【honto】

そうなったら現糸満市の南波平のことも調べてみないと…。なんだか収拾つかなくなってきたのでこれは今後の宿題ということで。うーん消化不良。

琉球の歴史は奥が深いと思っているけど、ちょいちょいはぐらかすよねー。

歴史ある場所歴史の人物第二尚氏王統
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