舜天(しゅんてん)

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舜天については、調べれば調べるほどにこんがらがってきます。

切っても切れない為朝伝説やそもそも舜天は実在していたのかなど、いろんな仮説が立てられています。そんなふうに情報が混乱しているのは、琉球の中でも歴史が古い時代の人物なので、資料がなさすぎて伝説や仮説を否定することができないからだそうです。

証明とか仮説とか、その辺の難しいことは私にはできませんが、私なりに歴史本を読み比べながら解釈した舜天のイメージをまとめてみようと思います。

まずは、舜天についての通説をざっくり書き出すことから始めます。

舜天の通説はこんな感じ

舜天とは、琉球王府の史書に載っている歴代中山王系図の一番目に書かれた人物。史書では、それ以前の王については歴史が古すぎてわからないとなっている。

生没年

1166年~1237年

在位

1187年~1237年

舜天の誕生にまつわる為朝伝説

保元の乱により伊豆大島へ流刑にされた源為朝(みなもとのためとも)は、島を脱出しようと船を出したところ嵐に遭い、運を天に任せて琉球の運天港にたどり着いた。その後大里按司の妹を妻とし、二人の間に生まれたのが尊敦(そんとん)、後の舜天王である。

為朝は故郷が恋しくなり、妻子を連れて故郷へ帰ることにした。港から船を出したところ、しばらくすると嵐になり、やっとのことで牧港へ戻ってきた。嵐がおさまったので改めて船を出したが、しばらくするとまた嵐が起こり港に戻ってきてしまった。

すると船頭が、
「女・子どもが船に乗ると海の神が怒る。」
と言ったので、為朝は泣く泣く妻子と別れ故郷へ帰っていった。

残された妻子は港近くの洞窟で為朝の帰りを待ち続け、北風が吹くと港に行き、為朝の帰りを祈った。その港の名は、『まちみなと』から転じて『まきみなと』と呼ばれるようになった。

尊敦の即位

尊敦は若くして按司となり、地域を治めていた。

そのころ、代々琉球を支配していた天孫一族の王が逆臣利勇によって毒殺された。それをきっかけに戦が起こり、民は苦しんでいた。

そこで尊敦は兵を起こし、グスクを包囲して利勇を滅ぼした。人々は喜び、中山の王へと支持した。尊敦は即位して舜天王となり琉球を治めた。そして琉球は安泰な世になった。

尊敦の頭には右側に瘤があり、尊敦はそれを隠すために右側に髪を結った。人々はそれを真似て右側に髪を結うようになった。それが片髪(かたかしら)の始まりとなった。

為朝伝説について少し

ざっくりと書くつもりが長くなってしまいました。為朝伝説のところを書きながら、為朝って船旅運が悪いよな…と思ったけど、まぁ昔の航海はそれだけ命がけだったのでしょう。

この為朝伝説が通説となって広がったのは、琉球王府がオフィシャルでまとめた歴史書(中山世鑑)にこの伝説を採用したことがきっかけだそうです。でも近年では為朝伝説は創作にすぎないといわれています。

ただ、中山世鑑が1650年ごろにまとめられる前から為朝伝説は巷で噂になっていて、琉球だけでなく大和(日本)にも広まっていたようです。

つい最近まで私は、本を出すような歴史家さん達がいつまでも為朝伝説をヒントに歴史を探っていることが理解できませんでした。いったん為朝から離れようぜ!と正直シラケた気持ちで読んでいました。というのは為朝伝説が薩摩侵攻の後に流れ始めた噂だと思っていたからです。

でもそれは間違いで、為朝伝説は薩摩が琉球へ干渉し始める100年程前にはすでにあったようでした。つまり、薩摩と琉球の関係に大きな問題がなかったころから為朝伝説はあったということですよね。

そこまで根強い伝説だったということを知って初めて、歴史家さんたちが琉球の歴史のヒントとして為朝伝説を手放さない理由がわかるような気がしました。

源為朝については琉球だけでなく、伊豆大島とか九州とか大和の中でもいろんなところに伝説が残っているようで、讃えられていたのか恐れられていたのか、今の私にはまったく見当が付きません。為朝という人物がそもそも何者なのか、また追々時間を見つけて調べてみたいと思います。

舜天は実在したのか

さて、話を舜天に戻します。

この記事の初めに書いた舜天の生没年や在位は、王府の史書に書かれているものです。いくつかの歴史本を読んでいると、その年齢や在位さえも妙に大和の歴史背景と噛み合いすぎていて作為を感じるという意見があります。在位が51年と長く72歳まで生きたとされているのも、当時の寿命としては不自然なのかもしれません。

出生伝説も含めそういう曖昧な点が多いからか、舜天は伝説の人物だと言われていた時期もあったようです。

でも最近の歴史本では、資料は残っていないけどまぁ実在したでしょうみたいな感じです。その理由として主に挙げられているのは、

  • 琉球を統一した尚巴志か、もしくは第二尚氏王統初代の尚円が建立したとされる崇元寺に、歴代の王の位牌として舜天の位牌も置かれていたこと。(先の大戦で焼失)
  • 第二尚氏王統三代目の尚真王が1522年に建てた石碑に「昔舜天英祖察度三代以降…」と舜天の名前が残っていて、尚真王の頃にも舜天の存在を認識していたと考えられること。
  • 舜天のものと伝わる墓と拝所があること。

などです。たぶんまだ他にも理由はあると思います。

崇元寺跡に残る石門(那覇市泊)
崇元寺跡に残る石門(那覇市泊)

その中で個人的に一番納得がいったのは、墓と拝所が残っているということでした。私が知る範囲では、舜天の墓は、南城市と北中城村にあります。北中城村には拝所もありました。

やはり琉球の人物を知るうえで、墓が残っているというのは、とても大事なポイントだと思っています。琉球での墓はとても重要なもので、かなり昔の時代から子孫は命がけで先祖の墓を守ってきたそうです。逆に戦に勝利した軍は敵軍の墓を暴くことで自分たちの勝利を誇示するという風習もあったと聞いたことがあります。

ということで、ここでは舜天は実在したということで話を進めていきます。

舜天の頃の時代背景

中山世鑑では舜天のころから琉球はすでに一つの国家であったように書いています。(後の王代で三山に分裂したというストーリーです。)

でもそれもどうやら創作のようで、実際には舜天のころの琉球は各地に按司(あじ)という支配者がいて、按司を中心にそれぞれの地域で交易などを行って繁栄していた小国家の時代だったという意見が多数です。その按司たちと地域を、さらに束ねる按司のことを世の主(よのぬし)と呼ぶこともあったようです。

ちなみに1372年に明王朝と初めてオフィシャルで貿易を始めた察度(さっと)という人物が、自らを中山王と名乗るまでは、琉球には王という概念がなかったと、歴史本で読んだ気がします。

ということは舜天は『舜天王』ではなく、『○○(地域名)世の主である舜天』だったと考えられます。(もっと突っ込んだことをいうと、舜天という名前も、彼が亡くなった後につけられた贈り名であろうとされています。あーややこしい…)

舜天はどこを治めていたか

では舜天はどこの世の主だったのか。

中山世鑑や世譜などの史書では、琉球の王城は昔から一貫して首里だったということにしています。でもこれは、史書がまとめられた時代の政治的な背景に影響されていて史実ではないというのが今では一般的です。

そもそも、舜天の時代には首里城は存在していなかったといわれています。なので最近の歴史本では、まぁ浦添を治めていたんでしょうという意見が大半です。(といいますか、歴史に名を残した偉大な歴史家の方がそういう見解を発表したとかだったと思います。)

でも舜天が浦添グスクを拠点にしていた説を疑問視する意見もいくつかあって、それは、舜天がここで支配していたという痕跡が、浦添には(おそらく)一つもないことが理由だそうです。

ほほう。これはおもしろいと思いました。

確かに、歴史に名を残すほどの世の主であれば、ここで顔を洗った井戸とか水を飲んでおいしいと言った泉みたいな、ホントに些細なエピソードが伝わる場所が一つぐらいあってもおかしくないのに…。

関係のありそうな地域を検証してみる

仮に舜天が浦添世の主じゃなかったとしたら、どこを支配していたのか。遊び半分ですが検証してみます。ヒントをかさ増ししたいので為朝伝説に出てくる場所も含めて検証しますね。

北部(今帰仁村運天)

為朝伝説で、舜天の父親という設定の為朝が運を天に任せてたどり着いた運天港。

これは現在の今帰仁村にあります。運天港の近くには為朝上陸の碑が立っていますが、これは大正時代に東郷平八郎が書いたものだそうです。

源為朝上陸の碑(今帰仁村運天)
源為朝上陸の碑(今帰仁村運天)

そもそも運天港の古い呼び名は「くもけな」で「雲慶那」と表記したそうです。それが転じて「うんてん」になったと歴史本にありました。

「くもけな」と呼ばれていたのがいつ話なのかはわかりませんが、昔は運天港なんてなかったので、為朝が運を天に任せてたどり着くなんてこともなかったという説があります。この説は個人的に納得がいきます。

したがって、運天と舜天はあまり関係がなさそうです。

南部(糸満市or南城市の大里)

次のヒントは、舜天の母親とされる大里按司の妹。大里按司というは、大里という地域の按司のことです。

大里按司は、現在の糸満市と南城市にそれぞれ居たようです。そのどちらの大里按司の妹だったのかは定かでないらしいのですが…。

そういえば南城市に舜天の墓があるといわれています。ムムム?これは気になりますねぇ。

中部(浦添市牧港)

舜天の母親が為朝の帰りを待ち続けたとされる牧港。これは現在の浦添にあります。

でも牧港の古い呼び名は「真比湊(まひみなと)」だったそうで、待ち続けたからマチミナトというのは創作の説が濃厚です。

だいたい舜天の母親とされる人物は按司の妹です。地域を支配する按司の親族である女性が、つつましやかに洞窟で夫の帰りを待ち続けるなんてありえないと思います。立派なお屋敷を建ててもらうか、早々に再婚話を進められると思います。

なのでこの話も却下。(なんでだろうヒートアップしてしまった…。)

中部(北中城村仲順)

北中城村の仲順には舜天の墓と伝わる場所や、舜天一族の拝所があります。

北中城村だったか忘れたのですが、村史的な本をチラッと読んだことがあります。そこには、舜天王統が終わるときに、舜天一族の子孫たちが先祖の遺骨を守るため、山のコースと海のコースの二手に分かれて北中城村まで移葬した。と書いてあったのを読んだ気がします。(ちゃんと読み直したら追記します。)

村史的な本の内容だと、舜天は北中城村以外の場所を治めていたことになりますよね。

舜天一族の墓があるとされるナスの御嶽(北中城村仲順)
舜天一族の墓があるとされるナスの御嶽(北中城村仲順)

ちなみにもう一つ北中城村の話があるのですが、私が一番最初に読んだ琉球の歴史系の本に、舜天は中グスクを築城したと書いてあったんですよね。最初私はそれをガッツリ信じていました。

でも歴史をよく調べるにつれて、その本に書かれているエピソードと史実の年表が合致しないことがたまにあるので、いったん頭をリセットしているところです。

でもでも、もし舜天が中グスクを治めていたとしたら、おもしろいなぁと思います。北中城村には墓もあるし拝所もあるし、あながちぶっ飛んだ話でもないような気がします。

今後はっきりする可能性もあるかも

今ふと思ったのですが、舜天という名前が亡くなった後につけられた贈り名だとしたら、生前の名が判れば、もしかするともっと舜天にまつわる場所が出てくるかもしれないですよね。

尊敦あらため舜天とはよく聞くけど、尊敦という名もなんだか胡散臭いという意見が多いので、舜天の生前の本名がはっきりすれば、舜天の謎が新たに解明される可能性もあるのかも。

と少し夢見てみました。

欹髻(かたかしら)について

中山世鑑で舜天が初めに結ったとされる欹髻(かたかしら)という髪型のイメージは、右耳辺りでまとめたお団子ヘアみたいな感じです。

でも中山世鑑はなんでわざわざ欹髻の話を書いたんだろうと思います。この情報いる?って素人的に思ったんです。それに琉球で2番目に書かれた史書の中山世譜にも、わざわざ欹髻について書いてあるんです。中山世譜ってすごくドライな史書で、余計な(?!)エピソードはバッサリカットって感じなのに、欹髻ネタは残してるんですよね。

これを書くことによって、舜天の髪型をみんなが真似したがるほど人気者だったということを表現したかったのか、はたまた史書をまとめた時代の政治的な都合だったのか…。これも今後何かわかったら追記していきますね。

舜天を誰にでもわかるように説明すると

さて、ここまで舜天について調べたことと私の思うことを書いてきましたが、結局舜天って何者やねんというのを、誰にでもわかるように説明してみます。

舜天とは、

  • 琉球王府の史書で歴代王系図の先頭に書かれた人物
  • 日本でいうと平安時代から鎌倉時代の頃の人物
  • 後世で源氏の血を引いているという設定にされたけど、たぶんそれは嘘
  • 大里按司(南部方面)の妹が母親という設定
  • 古からの主君に背いた逆臣利勇を討った英雄という設定
  • 琉球時代の伝統的な髪型、カタカシラを始めて結ったという設定
  • 実際は琉球が統一される前の時代の一権力者(按司)だという意見多数
  • 琉球のどこの地域のリーダーだったかは不明(多数派の意見では浦添)
  • 架空の人物なんじゃないかという意見もある
  • 舜天のものとされる墓は南城市と北中城村にある

こうやって箇条書きにしてみると、あんまり人間味が伝わってこない人物ですよね。舜天は出生のエピソードは多いですが、具体的な功績のエピソードは少ない気がします。

でももし舜天が本当に存在した1人の人物だとすれば、積極的に交易に取り組んだり近隣諸国の文明を取り入れて、地域を繁栄させていった人なんだと思います。そういう能力に長けていたから周りの按司たちも味方になって、領地が広がっていったんじゃないのかなと思うんです。

『なんだかあの地域にはキレッキレの按司がいて、めちゃくちゃ豊かな地域らしいぞ』っていう噂が琉球中に広まって、時と共に伝説の人物となっていったんだろうなと思っています。

参考書籍

人物相関図で見る舜天(しゅんてん)
歴史年表で見る舜天(しゅんてん)
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